四十七士の話し 元禄十四年(A・D・一七〇二)三月、京都から勅使が江戸城へ来る事になりました。 徳川五代将軍は勅使をむかえるために接待役を浅野と云う若い大名に命じました。 その当時将軍家の儀典長であった吉良と云う老人は非常に慾が深く職権を利用して人々からわいろを沢山とっておりました。 勅使接待という大役をはじめて命じられた浅野は色色むずかしい儀式について儀典長吉良に指導をたのみましたが、吉良は決して浅野に儀式について教えませんでした。 それは浅野が正しい人でしたから吉良にわいろをつかいませんでしたので。 或るひ、殿中で吉良が浅野を非常に侮辱しましたから、浅野はかっとなり、殿中にもかかわらず、吉良に切りつけました。 しかし、他の大名にとめられて、吉良を殺す事ができませんでした。 当時、江戸城中では刀を抜く事は厳禁されており、もしその法をおかせば厳罰に処されるのでしたから、浅野はその日の夜に切腹をさせられました。 その上浅野家は断絶、彼の城は取り上げられ、家来達は全部浪人になりました。 その後、浅野の元家老大石とその長男及び忠義な家来合わせて四十七名は非常な苦労をして、遂に浅野切腹後一年七か月目の或る大雪の夜中に、吉良の屋敷に討ち入って吉良の侍達と戦い、とうとう吉良の首を打ち取りました。 その夜明けに大石を先頭に一行は浅野の墓のある泉岳寺へ行き、吉良の首を主人の墓前にすえました。 こうして彼等は力を合わせて主人の仇を立派にうちました。 しばらく後に四十七士は静かに切腹しましたので、主人の墓のある泉岳寺にほうむられました。 その時から今日まで毎日多数の人々が彼等の墓にまいり、墓前のせんこうの煙がたえた日があ